世の中は不平等に出来ている。
これは致し方ない事。
生まれた瞬間にもう不平等は始まっているのだから。
どんな国に生まれたのか。
どんな経済状態の家庭に生まれたのか。
どんな両親のもとに生まれたのか。
容姿のことがあるかもしれない。
身体のことがあるかもしれない。
この世に誕生した時から不平等は始まっている。
しかし不平等だからといって、
リセットしてもう一回は出来ない。
ガチャもう一回も出来ない。
今の人生を全うするしかない。
どうせ全うするなら楽しい方がいい。
大丈夫。
不平等でもこれからの人生が全て決まっている訳ではないのだから。
最初に:選択肢は歳を重ねるほどに増えてゆく

子供の頃の選択肢は少ない。
歩くのもままならない幼児が、ひとりで衣食住を確保するのは不可能。
生きるために保護者が必要になってくる。
だから最初は生まれた家庭というコミュニティが全て。
そこで得た体験や知識が全て。になってしまうのは仕方がない。
生きるために、生存するために、衣食住と安全を確保してくれる存在が必要なのだから。
どんな両親のもとに生まれたのか。
どんな家庭環境でどのように育てられたのか。
これは本人にはどうしようも出来ないこと。
生まれた時から何かしらの不平等は始まってる。
その事実をどう捉えるのか。
そして、
目の前の現実とどう向き合いどう行動するのか。
その選択で未来が変わってゆくのだと思う。
子供の頃は致し方ないが、歳を重ねるにつれて自分で選択できる数が増えて来る。
それは経験、知識、関わる人、が増えてゆくから。
ひとりで生きてゆける知恵や能力は皆持っている。
ただ、その能力を使うか・使わないか。
磨くか・磨かないか。
その違いがあるだけ。
境遇を糧にして生きる。
境遇を利用して生きる。
境遇を呪いながら生きる。
境遇に押しつぶされながら生きる。
境遇など気にしないで生きる。
他にも境遇に対しての生き方はたくさんあるだろう。
何を選ぶのかは自分次第。
選択肢はたくさん在る。

すぐに選択しなくてもいい。
ゆっくりでもいい。
選択し直してもいい。
目の前だけでなく、
足元、頭の上、右側、左側、後ろ、全部を見渡して欲しい。
道はひとつだけではないことが分かるはずだから。
目の前の事実を客観的に見る
事実をそのまま受け取る
客観的に物事を見るクセをつけるのは、冷静に判断するのに必要なこと。
女性は感情的に物事を見てしまいがち。
これは私も同じで気を付けなければと常々思っています。
好き・嫌い。良い・悪い。だけで判断してしまうのは危うい。
ひとつ先を考えてみると、また違った景色が見えてくることはよくあります。
例えば、
『歩道で母親が小さな子供を怒鳴っている』という場面があるとします。

通りすがりのAさん
「怒鳴られて可哀想」
「虐待かも?」
少し前から見ていたBさん
実は子供が車道に飛び出して車に轢かれそうになったのを見ていたので、
「無事で良かった」
「愛情があるからこそ叱っている」
『歩道で母親が小さな子供を怒鳴っている』という事実も、切り取りかた次第では様相が変わってきます。
まずは一呼吸おく。ということ。
何か事情があるのかも?と考えてみる。ということ。
感情的になるな。感情をなくせ。と言っているわけではありません。
まずは感情抜きで物事を見るクセを付けた方がトラブルは少ないということです。
事実と真実は違う
実生活において真実はひとつではありません。
事実がひとつなのです。(真実がひとつなのは謎解きのとき)
辞書で調べてみると
【事実】
本当にあった事柄。現実に存在する事柄。
客観的事象。
【真実】
嘘偽りのないこと。本当のこと。
主観的事象。
上記の例で言えば、
事実は『歩道で母親が小さな子供を怒鳴っている』
真実は
Aさん「虐待している母親」
Bさん「愛情深い母親」
Aさんの「虐待している母親」は真実ではない!と思う人もいるでしょう。
しかし、通りすがりで切り取った情報しか持たないAさんにとっては「虐待している母親」が真実なのです。
後から前後の情報を知ることが出来れば間違っていたと訂正できますが、知る事がなければAさんにとっての真実はずっと「虐待している母親」です。Aさんは嘘をついている訳ではありません。垣間見た事実から自分なりに導き出した答え(真実)なのです。
何度も言いますが、真実は主観的現象なのです。
目の前の出来事をどう捉えるかで真実が変わってくる場合があります。
なので人によって真実が違う時があるのです。
だからAさんの真実と、Bさんの真実が違うのです。
普段の生活ではよくある事なのではないでしょうか。
推理小説の犯人捜しであれば真実はひとつでしょう。
しかし毎日を生きてゆく中で、嘘か真(まこと)か。正しいのか間違っているのか。など真実の追求ばかりはしていられません。
(もちろん悪い事は悪い事ですし、犯罪はしてはいけない事です)
事実を事実として受け取ることを第一とし、その上でどう行動するのかと考えた方が生きやすいのではないでしょうか。
前向きにあきらめる
自分の境遇や過去の出来事について四の五の言っても始まりません。
- なんでこうなのだろう
- もっとこうだったら
- あの時こうしていたら
と思い返しても無駄です。変わりません。
事実は変わらない。「覆水盆に返らず」です。

事実は変わらないので早々にあきらめてしまった方が精神的にも楽です。
このあきらめるは【区切りをつける】【執着を手放す】と同じことです。
あきらめるのは悪いことやネガティブな事ではありません。
【撤退】【損切り】と同じこと。
進む為の戦略。
どうにもならない事はさっさとあきらめて、何とかなることに力を注いだ方が気持ちも未来も明るくなります。
不平等は補え合えるチャンス

「なんで私ばかり」「どうして私は」
そう思う事も長い人生を生きていれば1つや2つ、、、いや10個や20個、、、いやいやそれ以上あるのかもしれません。
そのたびに、いじけて、愚痴を言って、不貞腐れていても、仕方がありません。
不平等というのは他の人と比べて思うことです。
そもそも比べなければ平等・不平等はありません。
自分ひとりで完結してしまうのですから。
比べた時に違うことがある。ということ。
これからはこの「違うこと」が大きなチャンスになるのではないでしょうか。
今までは「みんなで手を繋いで足並み揃えていきましょう!」というように、「みんな同じ」が良きこと。輪を乱すものは悪いこと。という時代だったように思います。
これからは「個々が個性を生かし自分で考えて選択していきましょう!」その上で、同じ方向に行くのなら一緒に、違うポイントに行く時はいったん離れ、また目的地が一致したら一緒に行きましょう。
このようにずっと一緒ではなく、ケースバイケースで進んで行くようになるのではないでしょうか。人と人が尊重し補い合いながら、自分の頭で考えて自分の足で歩む時代のように思います。
みんな同じでは補えあえません。
違うところがあるから補えあえるものです。
【不平等】と捉えるのか【補い合う事】と捉えるのか。
これもひとつの選択です。
最後に:不平等だから優しくなれる

世の中は不平等なんだな。
子供の頃にそう思いました。
うちは裕福な家庭ではなかったので何でも買ってもらえる環境ではありませんでした。
「〇〇ちゃんが持っているから私も欲しい。買って!」と言っても買ってもらえませんでした。
「人の家とうちは違います」と言われたらそうなんだ。としか思えなかった。
「〇〇ちゃんはいいなぁ」と言ったら「人は人。自分は自分」と言われていました。
そういうものなんだと思いすぐに諦めていました。
しかし妹は同じように言われてもへこたれませんでした。両親が根負けするまで毎日、毎日、駄々をこねて泣いて叫んで買ってもらったこともありました。(もちろん全てではありません)
弟は「欲しい」ことすら言わなくて、学校で「持っていない」ことでいじめられていたこともありました。
声に出さないといけないんだ。言葉にしないといけないんだ。意思表示をしないといけないんだ。と学習しました。
何も言わなくても手に入る環境。意思表示をすればすぐに手に入る環境。そうでないのなら、本当に欲しければ何度も粘り強く交渉しなければいけないんだ。と思いました。
得るためには頭を使わないといけないんだ。とも思いました。
世の中は不平等なんだな。
子供の頃にそう思いました。
だからこそ早い時期に悔しさや悲しさと共に不平等も受け取ることが出来ました。
拗ねるのではなく、事実として受け止め、どう対処するのか。
これは歳を重ねた人の方が実感として分かるだろうし、受け取る器も出来上がっていると思います。
ひとりで生き抜くためだけでなく、誰かと共に生きていくためにも必要なこと。
違いがあるから興味を持てる。
不平等があると思うから優しくなれる。